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白濁(六十六)

by 野原海明

 裏駅のカレー屋に入った。お昼時なのに、奇跡的にカウンター席が一人分だけ空いていた。お店で一番辛いエスニックカリーを頼む。その辛さが、自分のまわりをぼんやりと囲む濁った繭を破いてくれるのを期待して。

 今更、涙が出てきた。何の涙? よくわからないけど。鼻風邪を引いたふりをして、盛大に鼻をかんでごまかした。

 あまりにも長い間、坂井のことだけを考えて生きてきてしまったから、私にはリハビリが必要なのだ。自分の好きなものも自分の考えも全部封印して、ただ坂井といることだけを選んできてしまったから。

 このいわゆる日本のカレーとは全然違う、スパイスが香るそぼろと香草が山盛りになったカリーが出てきたら、坂井だったら顔をしかめるんだろうなぁ。私が「激激辛」なんていう、激辛よりもさらに辛いのを注文したら、呆れたようにため息をつくんだろうなぁ、なんて思いながら、ひとくちひとくち味わって食べた。いや、そもそもこんなに洒落たお店には入りたがらないかも。坂井とは、久米川のひなびた中華定食屋か、高田馬場のつけ麺屋くらいしか行ったことがなかったし。お店の新聞をすぐに広げて、私がいようがいまいが気にせずに一人でふらっと入ってきた人みたいに食事して。あの広げた新聞。いつもいつも壁みたいだと思ってた。

 やめよう、やめよう。もう終わったことだ。私といるときは、そんなふうに気をつかわずに過ごせたっていうことかもしれない。私が感じていたのよりもずっと、坂井は私を、私の体以外の何かを欲していたのかもしれない。ちょっとやそっと冷たく扱っても、尻尾を振って待っている子犬を可愛がるみたいに。けれど子犬には、餌をやらなくちゃ餓死してしまうんだよ。

 言いたいことはそれだけ?

 自分の声が耳元で言う。

 なんだ、ちゃんと感情らしい感情、あるんじゃない。

(つづく)

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体等とは関係ありません。

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