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白濁(十二)

by 野原海明

 立ち飲み屋なんて入ったことがないから勇気が要った。意を決してガラス戸を開け、仕事帰りのサラリーマンばかりのカウンターに、わずなか隙間を見つけて手を置いた。女一人の客は珍しいのか、視線がちらちらと投げられる。

「いらっしゃいませ、なんにしましょ?」

 まだ若いねじりハチマキの大将がニッと口角を上げて言う。

 少し迷って、日本酒を頼んだ。

「日本酒、お好きなんですね」

 声を掛けてきたのは、壁際に寄りかかるように立っていた男だった。黒い髪をあごにかかるくらい長く伸ばし、黒縁の眼鏡を掛けている。

「ああ、はい」

「僕も日本酒がいちばん好きです」

 見ると、ホッピーやレモンサワーを注文する人が多いなか、彼の前にだけ赤い升とグラスが置かれていた。その隣には、無造作に一眼レフのカメラ。

 それ以上会話をすることもなく、男は鮪のブツを肴にグラスを干し、

「じゃ」

 と一言だけ言ってカメラをつかんで出て行った。

 久しぶりの日本酒を舌に心地よく転がしながら、私は発泡酒よりもビールよりも、日本酒のほうが好きだったことを思い出していた。坂井が来ない夜もコンビニで発泡酒の缶を買って飲んでいたが、これからはときどきこうして店へふらりとやってきてひっかければいいのだ。

 立ち飲み屋に行き始めた頃、アルゼンチンタンゴも習い始めた。ハイヒールできれいに歩けるように、というのは表向きの理由で、本当は坂井以外の男の体に触れてみたかったのだ。男の先生は私よりも年下だった。踊ると、先生の白いシャツの肩に、私の赤い口紅がついた。

(つづく)  

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体等とは関係ありません。

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