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じゃらん、じゃらん。

by 野原海明

 じゃらん、じゃらんと、鈴の音がする。布団の中で目を閉じたまま耳を澄ます。あれは通りを征くお坊さまの鳴らす音だろうか。鈴の音は、眠りに吸い取られるように夢に溶けてゆく。

 昔旅をしたマレーシア。その土地では「散歩」のことを、「じゃらんじゃらん」と言った。永遠に出られないサウナのような熱気の中を、彼らはじゃらんじゃらんと歩くのだろう。少し足を引きずるようにうつむきがちに、でもどこか呑気に。その響きは鈴の音に似ていると思う。向かうあてもなく、歩くためだけにただ歩く。腕時計はつけたこともなく、家に帰るために満員電車に揺られる必要もない。ただ、じゃらんじゃらんと、陽の沈みかけたビーチを歩くのだ。

 この夏、逃げるように鎌倉に越してきた。積み上がったままのダンボールの間に布団を敷き、本物の虫の声を聴きながら眠れることが嬉しくて泣きそうになってしまう。このあたりは湿気が多くて、油断をするとすぐに押入に黴が生えるのだと、酒場で知り合ったばかりの人に教えられた。

 勤め始めて三年目にして身体を壊した。眠れない。明け方までひっきりなしに続く車の通る音、クラクション。酔っぱらいのヒステリックな高笑い。隣に住む男子学生の立てる物音。気にし過ぎなのはわかっている。私が神経質過ぎるのだ。だけれど、夜中にカーテンを引いたワンルームでそんな音を聞き続けていると、胸の動悸が止まらなくなってしまう。吐き気と目眩が続く。布団から身体を起こす。視界がぐらりぐらりと揺らいでいる。

 図書館から借りてきた波の音や虫の声のCDをエンドレスにしてかけて、その音だけに集中するようにしてやり過ごす。

 職場に近く便利だったそのマンションは、崇司の為に借りたようなものだった。仕事の忙しい崇司が、いつでも立ち寄れるように。崇司には合い鍵が渡してある。私が留守でも、いつでも昼寝をしに来れるように。テレビ局で働く崇司の予定は、いつもまったくわからない。私は崇司と会うために、仕事以外の予定はほとんど入れていなかった。学生時代の数少ない友達とも、もうしばらく会っていない。

 最初に引っ越すつもりだったのは高円寺あたりだった。小さな古びたアパートがごみごみとある感じと、中央線が高架を、まるで海の上を渡るように走るところに憧れていたのだ。そしていつか、今の仕事を辞めたなら、ほんものの海の近くに棲もうと思っていた。でもそれは、ずっと先のことであるはずだった。

 なんとなく本屋で手にとった雑誌の、鎌倉観光のおまけみたいなページに、移住のすすめが見開きで載っていた。都心まで一時間。めったに訪れないその町が、急にすぐ近くに思えてきた。思い立って職場の労務担当に電話を掛けたら、「その距離くらいでしたら問題なく、交通費全額支給できますよ」とあっさり返事が返ってきた。

 少ない空き家の中から選んだその部屋は、駅に近いせいか、手狭なわりに家賃が高めだった。もう少し奥まった山間に、同じ家賃で倍ほどの広さの物件を見つけて、私は冗談めかして崇史に「一緒に住む?」と訊いてみた。

「嫌だよ、鎌倉なんて。観光客ばかり多くってさ」

 思っていた通りの答えが返ってきて、寂しいような、でもどこかほっとしたような気持ちで、私は駅に近いその小さな部屋に契約を決めた。

 崇史が引っ越しの手伝いをしてくれるはずだったけど、あてにはできないから業者を頼んだ。箱詰めだけは手伝ってくれた。食器を新聞紙にくるみながら、「ほんとに引っ越しちゃうんだ。便利だったんだけどな」と崇司が言った。便利、ね、と私は思い、でも口には出さずに微笑んでみせた。

 休みの日はいつも散歩をする。海の方まで行って松林を抜けて帰って来たり、スニーカーを履いて山道を歩いてみたり。そうやって独りで町を歩いて、歩き疲れるとすっかり顔なじみになった酒場に立ち寄る。程よく身体が解れたところにお酒がまわり、あんなに眠れなかったことが嘘のように、深い眠りがやってくる。

 月に一度か二度、東京から崇史がやってくる。「ほんとうに人が多くて嫌になるよ」と不機嫌そうな顔で靴を脱ぎ、たいていは一日中私の部屋でごろごろして帰る。

 その日はあまりによく澄んだ秋空で、私はいてもたってもいられず、「一緒に散歩に行く?」と訊いてみいた。「行く」と、意外な答えが返ってきた。

 二人で並んで、若宮大路を海に向かって歩いた。もう秋の風が吹き始めているのに、地元のおじさまたちは皆、ハーフパンツにビーチサンダルだ。ジーンズ姿に革靴で、色白の崇史は、見るからに他所者だった。

「海、ここから歩いていけるんだっけ」

 崇史が訊く。

「十分くらいかな」

 そういえば、こうやって崇史と並んで歩いたことが今まであっただろうか、と私は思う。付き合い始めた頃はどこかの店で待ち合わせて、その後しばらくしてからは、私の部屋だけで過ごすようになっていた。

 並んで歩くだけでは、特に話すこともない。長い時間を二人で過ごしてきたはずなのに、私達は何を話してきたのだろうか。

「あ、ビーサン」

 崇史が足を止めた。海の近くの雑貨屋の前で、値引きされたビーチサンダルが売られていた。

「買ってあげようか。その革靴じゃ、砂浜歩けないし」

「うん」

 崇史が選んだのは黄色いビーチサンダルだった。

 砂浜に降りて、骨組みの残った海の家の周りを歩く。日差しが強くて、崇史は顔をしかめた。「戻ろっか」と言うと、小さく頷いた。

「あのさ」

 脇道にそれて歩く住宅街で、崇史がぼそりという。

「おまえの住んでた、あのマンション」

「うん?」

「仕事の帰りに前を通るんだ。明かりが消えてて、もう寝てるのかなって一瞬思って、でもよく見るとカーテンもなくって、もう、いないんだって思う」

 じゃらん、じゃらん。崇史の足が、慣れないビーチサンダルを引きずっている。私はここにいるのに、と思い、ああでも、ここに居る私とあそこに居た私はもう別の人間なのかもしれない、と思う。

 托鉢のお坊さまとすれ違った。お坊さまは小さく会釈をして通り過ぎていった。鈴の音が、じゃらん、じゃらんと、幻のように遠ざかる。(了)

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